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すべての言葉は「大好き」

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  2丁目の森に、面白い花を見に行こうって彼が言うから、デートだと思った私は二つ返事でついて来たけど、花を見に行こうって言った彼は、その言葉に違わず本当に花しか見なくて、新しいチークで頬を彩った私の顔なんて全く見ようとしない。彼が花を見るたびに、私は彼が私を見なかった数を数えてしまう。彼が私を見なかった31回目の瞬間、私は「いつでも見れると思ったら大間違いなんだからっ!」と叫んで、木々の絡み合う方へ駆けだしてしまった。

 我ながらバカだと思う。

 だけど抑えられなかった。

 かわいいって思われたい気持ちや、邪魔したくないって気持ち、誘ってくれたことの嬉しさや、もっと認められたいって気持ち。そのすべてに飲み込まれそうになって、駆け出さないと破裂してばくだんいわみたいになりそうだった。

「おーい、あやこー」

振り返ると、彼が追いかけて来ているのが見えた。やっとこっちを向いてくれた。嬉しくなった私は、枝や葉をかきわけて更に木と木の間を走って行く。落ち葉が足を滑らせてバランスを崩すけど、それでも走ることを止めない。背後から聞こえる大好きな声は、深夜のアルフォートみたいに甘美な罪悪感をもたらした。

 今夜はチョコレート注意報が出ていて、18時以降のチョコレート確率は80%だった。空がチョコレートに覆われてしまう前に、森を出なくては面倒なことになる。こんなくだらないことで時間を取っている場合じゃないと思うけど、でも私にとっては重大なことだ。私は足を踏み込んで、速度を上げようとした。

 その瞬間、左側から大きな剥きクルミが飛んできて私を跳ね飛ばした。

 あー。なんて声も出ない。その代わり、驚いた彼の叫び声が辺りに響いた。視界は90度変わって、縦向きだった木はみんな横向きになって目の前を流れていく。身体は宙を舞って、制御出来ない。

 私は頭から乳白色の沼に飛び込んだ。

 幸い沼は浅く、私が立つと顔が出た。

 どろどろしたものを掻き分けて、フチまでなんとか歩くと、手を掛けて陸へ上がろうとした。けれど、手は滑り、身体中にまとわりついたぬるぬるが、私を沼の中へ止めようとする。加熱して溶かしたクリームチーズを思わせる質感だった。

 私の名前を呼ぶ彼の声が聞こえる。いつもの瑞々しさがない。こんな声は好きじゃない。

「大丈夫か?」

目の前に現れた彼は困惑した顔で、こちらに手を差し伸べた。

私はその手を掴もうと思うけど、その前にやっぱり何か言わないと気が済まない。

「ばか!」「あほ!」「へんたい!」「ロリコン!」「きもい!」「クソメン!」「遅刻魔!」「くいしんぼ!」

思いつく限りの悪口を言ったつもりが、私の声は「好き」にしかならなかった。

「あははは、何それ」

彼は笑っている。

「違うの!」

私はもう一度、思いつく限り罵倒しようとする。そうでもしないと気が済まない。

「メガネ!」「服ヲタ!」「料理上手!」「部屋綺麗!」「かわいい!」「オシャレ!」「たのしい!」「かっこいい!」

罵るつもりがいつの間にか褒め言葉に変わっていた。それでも尚、言葉は「好き」という声にしかならない。

「はいはい、わかったよ。そんなに俺のことが好きか」

彼は私の手を掴むと、沼から引き上げてくれる。

「違う!」反射的にそう言う。でもすぐに気付く。

「……違わない」

「だろー」

地面の上に上がった私は、全身クリームチーズ状のものでどっぷり濡れてぬるぬるだった。

 空を見上げると、西の空の裾がチョコレート色に染まりかけている。

「チョコレート注意報も出ているし、そろそろ帰らないとな」

彼が寂しそうに笑う。

 どんな笑顔でも彼の笑顔は好きだけど、でも私はいつもの脳天気そうな笑顔の方がずっと好きだ。

 そもそもそういう顔を見ているうちに、私は恋に落ちたというのに。

 謝ろうと思った。けれどそれがまた「好き」という言葉に変わってしまいそうな気がした私は、文字に託すことを思いつく。

 落ちていた木の枝を拾うと私は、土の上に文字を書いた

 ーーごめんね。

「何で?」

文字を読んだ彼は笑っている。

 私はまた木の枝を土の上に突き立てた。

 ーーせっかく来たのに、わたしがバカだから。

「ほんとだよ。びっくりしたわ」

彼は笑い声混じりで言う。私のわがままを冗談に変えようとしてくれているみたいで、すごくありがたい。

 私は自分の小ささを思い知って、情けなくなって涙が出てくる。

 ーーだいすきだよーーー!

 枝の先でめいっぱい大きな文字を書いた。

 どうせ泣いてるのなんかすぐバレちゃうんだから、取り繕うだけ無駄だ。私は彼を見て「えへっ」と笑った。

 すると彼は屈託のない笑顔で私に応える。

 その顔を見て私はやっぱりこういう顔が好きだなって思う。

 これからもずっと、こんな顔を見ていたい。どうかわたしのせいで、彼の笑顔が曇ることがないように。

「それにしても、どろどろだな」

彼は私の手を握る。

「帰るか」

うんっ、と私は深く頷いた。

 顔を上げると、愛しの彼の向こうに褐色の空が拡がっているのが見えた。